** 児嶋真史・妖 人 奇 人 館 **


 第24回完結


〜はじめに〜

 

の妖人奇人館は、児嶋真史氏が突如まうまうのメールによって連載を始めたものである。

 

「日々のメールより」を見ていただければ分かるような、メールのやりとりをしているところへ

突然「第1回フーセンおじさん」・・・と送られてきた。

このメールに、多くのまうまう参加者が戸惑ったという。

 

当時、大谷直子(22・豚)さんはこう語った。

「なんて返信していいかわかんな〜い。チョーびっくりぃーってかんじぃ〜?」

 

ころが、なぜだろう。誰もが困惑したはずの「妖人奇人館」だったが、第6回を過ぎる頃から、

この3〜4行の奇人伝を待ち望むようになってきたのだ。

まんまと、児嶋真史マジックにハマってしまったようである。

誰一人として、この「妖人奇人館」の内容に対して感想を述べないのに、誰もが待ち望む。

作者・児嶋真史が最も得意とするスタイルである。

 

らに児嶋真史氏の絶妙な作戦が始まる。

出し惜しみだ。9回を越えるあたりから、極端に連載のペースが落ちてきたのだ。

読みたいという気持ちが絶好調にになる頃、ヒョコっとまた送られてくる。

しかし、さらにペースは落ちる。

我慢できなくなった鈴木亜紀(旧姓・伯井)さんは、読みたいばっかりに

「こじま、ネタ切れ〜?」とメールを送り児嶋氏を怒らせてしまったこともあった。

 

在、依然ペースは落ちたままだ。

作者の巧妙な心理作戦は続いているのだろうか?

それともひょっとして、本当にネタ切れなのだろうか?いや、そんなはずはない。

作品の創作に疲れてしまったのだろうか?

鈴木亜紀さんの一言が響いたのか!?

 

回、この妖人奇人館を作ることは多くのまうまう参加者が待ち望んだものである。

またこのように掲載することにより、外部の人間の目に触れることもあろう。

 

これを期に、作者の創作意欲がよりいっそう増し、連載ペースが当初に戻ることを祈り、

児嶋真史妖人奇人館開設の挨拶と代えさせていただくことにする。

 

ありがとうございました。 

                 ---パチパチパチ(拍手)---

 

〜途中にて〜

 

の妖人奇人館、知っている人も多いと思うが第22回くらいの時に、連載終了の危機が訪れていた。

 

児嶋氏の突然の「エンドロール」という題名のメール。

・・・・「妖人奇人館 閉館の時間がやってまいりました。」・・・・

一体どうしたというのか!?

これを書いている私は理由を知っていた。しかし、ここではあえて書くまい。

書く必要がないのだ。

なぜなら、「妖人奇人館」は静かに、そしてひっそりと、「続投」されたのだ。

 

のメールが何人かの人に知らされたとき、多くの人が

「なんで?」「え、終わっちゃうの?」と困惑を見せた。

実に感動的な瞬間であった。

それは、めっきりとペースが落ちて開館してるのか閉館してるのか分からない状態にあった妖人奇人館を

読者が待ち望んでいた証拠であった。

 

者の喜びも、第24回の文量を見れば、一目瞭然である。

 

これからも、妖人奇人館は続くであろう。

・・・そう願いたい。

 

-----妖人奇人館管理人 〜幾重もの色を映し出す夕映えを見ながら思う より〜

 

 

 

それではみなさん。

ごゆっくりとご覧下さい。


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第1回〜 第5回〜 第10回〜 第15回〜 第20回〜 閉館のお時間

 


どうも こじまです。妖人奇人館の開館ですー。

 

第1回 「フーセンおじさん」

 

数年前身体に無数の風船をつけて、何処へかとんでいったおじさん。

離陸後に消息を絶ち、その行方は不明。

彼は何をおもい、その無謀すぎる計画を決行するにいたったのであろうか。

 

第2回 「サン・ジェルマン」

 

サン・ジェルマン伯爵は18世紀の魔術師で、彼の言うところ自分は2000年もの昔から生き続け、

霊薬により死ねない身体になってしまったとゆう。

実際に数々の言語や、当時では知りようのない驚くべき知識を身につけていたそうだ。

彼の弟子に真偽を問いただしたところ

「お許しください、私は伯爵にお仕えしてまだ 300年にしかならないのでございます。」と答えたという。

注) 落語のネタじゃありません。

 

第3回 「モンタギュー・ジョン・ドルーイット」

 

オックスフォード大学卒、王立外科医の父を持ち、職業は弁護士。

彼は19世紀末、ロンドンを震撼させた、連続淫売婦殺人事件の真犯人ともくされた。

別名、切り裂きジャック

 

第4回 「犬神 明」

 

幻魔大戦、ハルマゲドンの少女などでおなじみのベストセラー作家、平井 和正の人気シリーズ「ウルフガイ」は

主人公、犬神 明が狼に変身したりして無茶をする、SFヴァイオレンスアクション。

当然すぎるほどフィクションだ。 しかし数年前、犬神明シリーズを執筆していた平井 和正の家に、

「犬神 明」と名 乗る男が訪ねてきた。最初は適当にあしらっていた平井だったが、話をするうちに

「この男は紛れも無く本物の犬神明だ!」と確信!!。

編集者立ち会いのもとSF雑 誌の誌面上で対談を行う。

注)この対談その他の情報は「リアル犬神明」として平井 和正のホームページに掲載されています。

 

第5回 「ビリケンさん」

 

通天閣にはビリケンさんがいる。

ビリケンさんは、木彫りの像。その紹介文を引用してみると

「ビリケンは1908年にアメリカの女流美術科が夢で見た奇怪な神を作品にしたもので、

アメリカで大流行した。

日本には明治45年に新世界の遊園地に安置され名物となったが、行方不明となり50年ぶりに探し出され

通天閣に安置された。合格と良縁の神様として活躍されいる。」

・・・なんだ?これは。

行方不明?50年ぶり?なぜ通天閣に!どーして合格と良縁?だいたい「ビリケン」ってなんだ?

等の疑問を持つ方もおられよう。

多神教国日本においても珍しい奇神。

注)ビリケン音頭 (唄 岡田由美、作詞 本田良寛、作曲 榎谷おさむ、編曲 斎藤恒 夫)

も発売されているようです。

 

第6回 「トーマス・F・マンテル」

 

1960年代、軍用機で飛行中のアメリカ空軍トーマス・F・マンテル大尉から地上管制塔に異常な通信が

送られてきた。

「ものすごいスピードでジグザグに飛ぶ光る物体を発見、追跡中!。」

当時いわゆるUFOは、人々にはしられていなかった。

その後、謎の飛行物体を見失ったマンテルは「基地にもどる。」との通信を最後に現在にいたるまで、

帰還していない。

 

第7回 「奇祭を行う南米の土人たち」

 

南米には非常に奇妙なお祭りがある。

祭りが始まると住民たちは火を取り囲み踊りまくるのだが、なんと全員が「ガマガエ ル」をくわえているのだ。

口からガマの脚をはみださせたりしながら。

これは意味不明な祭ではなく、ガマガエルには大麻やハシシュに含まれるTHCとゆう成分が動物の中で唯一ある。

それにより南米の人々はトリップ状態になり、神事を執り行なっているのだ。

注)ガマガエルの表皮からでる粘液は劇薬なので、庭でガマをつかまえてチューチュー吸ったりしては駄目です。

 

第8回 「芥川 龍之介」

 

自分とうりふたつの人物が目の前に現れる。こうした現象は古くから知られており、

死の前兆だと言われていたらしい。

また精神医学上の用語では、オートスコピー(自己像幻視)という。

ご存知芥川賞作家、じゃあないよ、芥川賞の作家。

芥川 龍之介はこの現象に異常なほどの興味を持ち、自分でもその経験があるといっている。

後に彼は自殺した。

その遺書にある「漠然とした不安」とはこの自己像幻視に関連したものだろうか。

 

第9回 「関羽」

 

中国の三国時代、蜀漢の皇帝となった劉備の義弟。めちゃめちゃ強かった。

のはいいんだけど、死後なぜか商売の神様としてあがめられる。

注)横浜の中華街にもこの関羽を祭った関帝廟があります。

 

10回「グレゴーリ・エフィモーヴィッチ・ラスプーチン」

 

らすぷーちん、と書くとなんかゼラチン質の食べ物のようだが、ラスプーチンはロマノフ王朝末期の

ロシア宮廷にあって、絶大な権力をふるった悪名高い怪僧である。

彼はまじない師として数々の奇跡をおこし、手をかざすだけで、あらゆる病気をなおしたという。

皇帝ニコライ二世の子を、霊力で治し宮廷への出入りを許される。

その後、政治的なことや、淫蕩な宗教的なことはおいといて特筆すべきはその死に方である。

まず青酸カリ入りのお菓子を残らず食べ、毒入り葡萄酒を飲み、弾丸を心臓に一発と背中に4発、それでも死なず、

頭部を銀の燭台でめった打ちにされ、さらに冷たい河に投げ込まれやっと絶命したという。

 

第11回「高橋利幸」

 

彼は、卓越した反射神経と一秒間に約16回もAボタンを連打できる能力により、

1985年初代ゲーム名人位に即く。その後子供たちの間で伝説的ヒーローとなる

。当時、彼の名人位をねらうウサン臭い自称名人が乱立した時期があるが、16連射の前にことごとく敗れ去って

いった。

名人の必殺技「16連射」は凄まじく、彼自身の主演映画の中ですいかを割ったりバイクを止めたりした。指で。

その後連射機能付コントローラーの登場などにより、存在意義が薄れていった。

注)高橋名人はつい最近、退位し「部長」に昇進したそうです。

 

第12回「南光坊天海」

 

天台宗の僧、比叡山で教学を究め徳川家康の側近となる。類まれな知略と政治能力により徳川家の黒幕として活躍し

家康の覇業に多大な貢献をする。

いつも、黒衣を身にまとい素顔を知る者も少く「黒衣の宰相」と畏怖される。

しかし、それほど人物でありながら、家康に仕えるまでの前半生が全くの謎に包まれている。

一説には、山崎天王山で羽柴筑前に敗北した明智光秀がその正体であるという。

 

第13回「コナン・ドイル」

 

小説家。代表作はシャーロック・ホームズ。

世界中の子供たちに読まれているこのシリーズの作者、コナン・ドイルはコカイン中毒者であった。

原文ではホームズも無論ガンガンやっている。

ホームズをつけねらうモリアーティ教授は追跡妄想による幻覚との説もある。

切り裂きジャック事件のさいには警察から犯人割り出しの依頼をうけている。

ところで「妖精を見た少女」の論争がヨーロッパ中で巻き起こった当時、なぜか肯定派の筆頭となっている。

 

第14回「花木蘭」

 

隋末唐初、病気の父に代わり、男装して兵役についた美少女。多くの戦功をたてて将軍になる。

しかし、その後については諸説あり、しかも悲しい結末のものが多い。

注)数年前、この花木蘭を題材にしたものが何故かディズニーによって映画化されています。

 

第15回「チェーザレ・ボルジア」

 

禁欲もって知られるローマ・カトリック教会。人間の開放が時代とともに進むなか、

依然として聖職者の結婚を禁止している。

15世紀、そんなカトリック教会のトップに君臨した法王アレッサンドロ六世は取り巻きの司祭たちと

夜な夜な乱交パーティを開く、大変くだけた人物であった。

その息子のひとり、チェーザレ・ボルジアも「神の愛」や「イエスの御心」とはほど遠い、

欲望に対してきわめて敬虔かつ忠実な人物であった。

チェーザレ・ボルジアは、法王領拡大のために権謀の限りをつくし、「冷血の貴公子」と恐れられる。

その性欲も乱脈をきわめ、実妹ルクレツィアとまで関係を持つほどであった。

しかし、彼の徹底した合理主義と行動力はマキャヴェリの「君主論」の中で理想のモデルとなっている。

 

第16回「黙阿弥」

 

戦国時代、大和の僧兵大名 筒井 順昭は臨終の間際、枕元に側近 島 左近を呼び寄せた。

この時、跡継ぎ順慶は三歳。

「我死せば、隣国が侵略してくるであろう。されば死後三年は、ふかく喪を秘すべし。」

「奈良に盲人あり。容貌、声色、われに酷似せり。」

「名を黙阿弥という。」

順昭の死後、左近は黙阿弥を順昭に仕立てた。

黙阿弥は順昭になりきり味方でさえ主君と思い込むようになったため、喪を発したの

はなんと十年後であった。

その後、筒井家では黙阿弥の功労を謝し、多くの金品をあたえ、故郷に帰した。

「もとの黙阿弥になった。」という。

 

第17回「円谷 幸吉」

 

マラソン選手。

東京オリンピックで銅メダルに輝き、日本中を熱狂させる。

次のメキシコオリンピックにむけて国民の多大な期待をうけるが、

昭和43年1月9日午前1時、自ら命を絶つ。

享年27歳。

以下は、円谷選手が両親にあてた遺書の全文です。

 

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。

干し柿、モチも美味しゅうございました。

敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。

克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。

巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。

喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。

又いつも洗濯ありがとうございました。

幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。

モンゴいか美味しゅうございました。

正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。

幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、

ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、

正嗣君、立派な人になって下さい。

父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。

何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。

幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

 

第18回「スーパークリング」

 

「外科医の写真」。一部マニアの間でそう呼ばれる一枚の写真がある。

1943年、高名な外科医により撮影されたこの写真には、ネス湖に生息している

といわれる伝説の怪獣がその長い首を水辺からひょっこり出している姿が、いい具合

にボケた感じで写っている。

この一枚の写真はその後、世界中を巻き込んだネッシー騒動のきっかけとなり、

数々の論争を引き起こした。

 

1994年、スーパークリング氏は90歳で死亡する直前、この「外科医の写真」について、

「実は、おもちゃの潜水艦を使った複数の人物によるイタズラで、自分はその一人であった。」

と告白している。

 

多くの人びとが「やっぱりな」と一笑に付した中、彼らのウソを真に受け一生をネッシー発見に

費やした者も、少なくない。

90歳になるまでウソをつき通し、死を目前にして告白するに至ったスーパークリング氏は

一体どのような心境だったのだろうか。

 

第19回「長尾 景虎」

 

戦国時代、「越後の龍」と呼ばれた武将。

軍神毘沙門天に戦勝を祈し、みずから女色を絶つ。

後に上杉家の家督を継ぎ、「謙信」と名乗る。領土的野心は皆無で常に義によって

兵を起こし生涯無敗であった。

 

第20回「ジル・ド・レエ」

 

15世紀のフランス貴族。

神の啓示を受けたと自称する16歳の田舎娘ジャンヌ・ラピュセルと共に当時敗色濃厚であった

フランス軍を指揮し、重要拠点オルレアンを奇跡的に解放するなど数々の武勲をあげる。

25歳で元帥の称号を与えられた栄誉ある軍人であった。

ジル・ド・レエの精神に変調をきたしたのは同志ジャンヌが魔女として火あぶりに

処せられてほどなくであった。

自城に引きこもった彼は悪魔崇拝、錬金術に凝り始め、男色にふけりだした。

さらに800人もの幼児を殺戮するにいたり、絞首刑となる。

ジル・ド・レエは犠牲者の家族に対面すると涙を流し激しく悔恨し、喜んで絞首台

にのぼった。ほかの中世異常大量殺戮者とはやや異なる最期といえよう。

 

ジャンヌとは当時お互いに戦友以上の想いを胸に秘めあっていたという。 

 

第21回「永山 則夫」

 

1968年に起きた連続射殺事件の犯人。

当時19歳。

第一審判決死刑。

控訴審判決無期懲役。

差戻審判決死刑。

長い拘置所生活で、生い立ちなどを手記として執筆。

それをまとめた「無知の涙」が昭和46年に出版されるとベストセラーとなる。

その後も独房で執筆を続け日本文芸家協会入会に推薦される、が協会は永山の入会を

拒否。(この時、柄谷行人、筒井康隆らが協会を脱退。)

その後、獄中で結婚そして離婚。

差戻審・差戻し後上告審を担当した遠藤誠弁護士(山口組顧問。麻原容疑者は夢のな

かで菩薩が現れ、遠藤弁護士に弁護してもらうようお告げを受けたという)は犯行当

時の精神年齢を争点に弁護を展開するが判決は死刑。

1990年5月、再上告は棄却される。

同9月、唯一無期懲役の判決を下した船田三雄裁判官が退官

1997年8月1日。死刑執行。享年47歳

同14日、東京都文京区の林泉寺で告別式 喪主・遠藤誠弁護士 。

永山は依然「死んだら墓はいりません。灰にして大好きな網走の海に流してくだ

さい」と語ったという。

連載していた小説「華」は、1997年六月の掲載を最後に未完のまま終わることに

なった。

第22回「徐福」

 

天皇、地皇、人皇。

古代中国、その始まりは三皇と呼ばれる、半神半人の王たちの時代であった。

そして「黄帝」を祖とする5人の聖王があらわれる。すなはち五帝である。

三皇五帝。人々はこの伝説の英雄たちによる統治こそ理想世界であるとした。

 

秦王、政。永きにわたる戦乱に終止符を打ち、中国全土を統一する。

政は自らを三皇より優れ、五帝をも凌ぐ存在として「皇帝」を名乗る。始皇帝であ

る。

中原を制し、絶大な権力をふるった始皇帝もやがて、

不老不死の妄想にとりつかれることとなる。

そして、東海の神山にあるとされる不老不死の霊薬捜索に抜擢されたのが

斉の方士「徐福」であった。

徐福は85隻の船団に3000人の童子、童女をのせ

財宝、五穀をつみ神山蓬莱を目指し出航した。

 

始皇帝は徐福の帰還を待つことなく、怪しげな導師たちのすすめるまま、

根拠のない妙薬(水銀など)を飲みつづけ自ら寿命を縮めた。

始皇帝の死後まもなく、中原は楚の項羽のものとなる。

 

徐福は、伝承によれば、蓬莱にたどり着いたもののその地に根づき、五穀を伝えた

という。

 

和歌山県新宮市徐福町に 紀伊頼宣が建立した「秦徐福之墓」がある。

 

第23回「マーシャル・アップルホワイト」

 

1997年の3月、ヘール・ボップと呼ばれる巨大な彗星が、地球に最接近した。

マーシャル・アップルホワイト氏をリーダーとするカルト宗教団体「ヘブンズ・

ゲート」は、「ヘール・ボップ彗星とともに地球に接近する宇宙船に乗り込み、別世

界で再生する。」という教義のもと、20歳から72歳の男性18人女性21人あわせて

39人により1997年3月27日、宇宙船に乗るため、集団自殺を決行した。

彗星とともに旅立ったアップルホワイト氏は、1970年代初め大学で

音楽教師をしていたが、心臓病で入院した際に知り合った看護婦に触発され「ヘブン

ズ・ゲート」につながる団体を創設、妻子を捨て二人は放浪生活に入った。

80年代は予言通り宇宙船が現れず、信者が脱落することもあったが93年に再び

布教を再開した。

しかし苦労を共にしたその看護婦は彗星の到来を待つことなくこの世を去っている。

 

第24回「大谷 吉継」

 

浪人として諸国を放浪中に石田三成に出会い、彼の推挙に

より、当時織田家の一部将であった羽柴 秀吉に仕える。

秀吉のもとで頭角をあらわすと、従五位刑部少輔に列せら

れ、秀吉から一字賜って「吉継」と名乗る。

 

吉継は野戦指揮官として活躍し、秀吉をして「百万の軍勢の

采配をとらせたい」と言わしめた。

 

しかし程なく吉継はライ病に犯される。ライ病は皮膚が崩れ

る伝染病で端麗であった顔面は醜く崩れた。そのため常に

顔面を絹で包んでいた、という。

 

太閤秀吉の薨去(こうきょ)後、豊臣家筆頭大老徳川家康は

秀吉の遺命をことごとく無視し、露骨に政権簒奪の動きを見

せ始める。

秀吉恩顧の諸大名が次々と家康に媚びを売りだす中、秀

吉の恩義に報いるべく挙兵したのは石田三成であった。

三成に、この計画を打ち明けられた吉継は西軍に勝機は無

いと見る、が 三成の決意の固さを察し

「もはや之を如何とすることなし。ただ死を同くせんのみ」

と、友誼に殉ずることを決意する。

 

慶長5年9月15日、関ヶ原において東西両軍が激突する。

 

西軍は数のうえでは東軍に勝るもののそのほとんどが家康

に内通しており、実際に戦闘に参加していたのは、石田隊、

宇喜多隊、大谷隊のみであった。

しかし、この3部隊の奮戦は凄まじく序盤戦は西軍有利の

かたちで展開していく。

なかでも、

「わざと鎧は着ざりけり。これは潔く腹切らん為の装束と沙

汰しけり…」

という悲壮な出で立ちで参陣した大谷 吉継は病の悪化のた

め、もはや騎乗できぬ身体であり、ほぼ失明に近い状態で

ありながら輿に乗り采配をふるい、手勢3千を巧みに進退さ

せ、数倍に及ぶ東軍諸隊を敗走させた。

 

しかし、時が経過とともに西軍兵士に疲労が見え始める。

東軍は数にものを言わせ次々と新手の兵を投入、まず

宇喜多隊が崩れはじめた。さらに、山頂に陣取り全く動こうと

しなかった西軍小早川秀秋の大軍が、味方に対し攻撃を開

始した。

寝返った小早川勢1万数千の横撃をまともに受けるかたち

となった大谷隊だが、吉継は予め小早川秀秋の裏切りに備

えて鉄砲隊を布陣させている。一斉射撃後、大谷隊全軍に

よる壮絶な突撃を慣行した。裏切りものを一人でも多く地獄

へみちずれにすべく、死兵と化した大谷兵の凄まじい突撃に

よって小早川隊は第1陣が壊滅、第2陣も敗走し一時は本

陣まで脅かされ、敗走すること5町に及んだ。

小早川秀秋は合戦後、このときの大谷兵の影に脅え程なく

狂死することとなる。

 

しかし小早川の裏切りによって他の西軍大名にも裏切るも

のが続出し、小早川隊と合わせて2万5千の大軍に包囲され

た大谷隊2千は、やがて壊滅する。

 

大谷 吉継は病により崩れた顔を敵にあらためられるのをよ

しとせず自刃し侍臣の湯浅五助に首を打たせた。

湯浅は吉継の首を深く埋めると1人乱刃のなかに切り込み

討死を遂げた。

 

西軍は壊走し、天下を二つに分けた合戦は終結する。

 

当時、友誼という道徳観念は無い。

三成と吉継の希有な関係を物語るこんな逸話がある。

 

茶会が催されたおり、秀吉自慢の茶器による回し飲みが行

われた。

参列した者たちは病の伝染を恐れ吉継が飲んだ茶碗で茶を

飲むのを嫌がり口をつけるにとどまった。

しかし三成だけは何食わぬ顔で一気に茶を飲み干したと

いう。

 


「END ROLL」

 

...妖人奇人館の閉館時刻となりました。

 

 

参考資料

「妖人奇人館」 渋澤龍彦

 

「のほほん雑記帳」大槻ケンヂ

 

「ウルフガイ」平井 和

 

「しりとりえっせい」中島 らも

 

「三国志演義」羅漢中

 

「風よ万里を駆けよ」田中 芳樹

 

「極言」落合 信彦

 

「最後の伊賀者」司馬 遼太郎

 

「敗れざるものたち」沢木 耕太郎

 

「ギャラリーフェイク」細野 不二彦

 

他多数

 

 

〜作者あとがき〜

 

閉館については前々から考えてまして、

当初は世界びっくり人間ショーのようなものを

考えていたのですが、回が進むうちにまあ題材の選定基準が

僕の好みによるところが大きいというのが原因なんですが、

「妖人」あるいは「奇人」というカテゴリーに位置づけるのが偲びないというか。

執筆にあたってそれなりに資料を集めるんですが

その人物像に触れるうちに、彼らなりに必至に生きているにもかかわらず、

環境や時代性なんかにそぐわなくなり結果として珍奇な行動として

他人の目に映ってしまう、そういうのがやるせないというか、

どうも奇人などというのは違うかな、と。

あとはネタ切れ、というわけではないんですが

僕なりにバランスを考えながら人選して来たわけです。

ただこれも個人的なことなんですが、日本や中国は

いいんですがその他世界の歴史や人物に弱いんで、その題材探しに難渋しはじめまし

て、

いずれにしても本家渋澤の名を出すときは

潮時と決めてたんですね。

 

 


〜おわりに〜 (2002.3.8)

 

いに終わってしまった。妖人奇人館。話の再開を待ち続けて約2年。早いものだ・・・

 

 

は、上の「END ROLL」は2000年3月27日p.m.7:07に送られたメールである。

そう。これは上記にある「はじめに〜途中にて〜」の文章で出てくる「END ROLL」そのものだ。

 

 

この「END ROLL」が出されてから第23回が4月24日に、第24回が5月25日に

送られてきた。

「〜途中にて〜」でも書いたように、私達はこの月1ペースで続投された妖人奇人館にフッと

胸を撫で下ろし、第25回を待った。...待ち続けた。

しかし、作者の中では、2000年3月27日p.m.7:07の「END ROLL」の時点で

妖人奇人館は終了していたのだ。

 

の記憶が確かならば、このあたりから作者はアンダーな世界へと旅立ち、

表の世界(メーリングリスト)に忽然と姿を見せなくなった・・・。

 

作者の身に何があったのか?

心配でならない。

 

が私は想う、この2年という月日は・「インターネット」という世界や観念、

・便利さと危険さが隣り合わせなのだという認識、・著作権などとうまく付き合っていくスタンス、

等を人々に考えさせるに十分な時間ではなかったかと...。

そして何より、情報の送り手としての作者を一回りも二回りも大きくするに十分な時間ではなかったかと。

 

だからこそ今、作者に訴えかけたい。

再度その作者の持つ内なる世界を放出し、

それをエンターテイメントに変換してみてはどうか!

 

...そんな気持ちを、私はこの妖人奇人館の終わりの言葉として、残したいと想う。

 

作者に、そして御来館頂いた皆様に感謝の意を込めて・・・。

 

 

 

        -----妖人奇人館管理人 〜黄昏時に2年という歳月を想う〜 より

 

 

 

 ありがとうございました。


作者への感想を受け付けています。>裏部誌

 

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